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北海道新聞2019年7月17日〜8月14日夕刊

インタビュー「私の中の歴史〜港町を思う未来を歌う」(全16回)
聞き手:大原智也

第1回「留萌生まれ 夕日輝く黄金岬が原点」(2019年7月17日夕刊)

北海道新聞2019年7月17日夕刊 ...留萌にいたのは1、2歳まで。記憶はほとんどない。それでも中学時代に家族旅行で昔住んでいた場所についれていってもらったことがある。
 そこは小高い丘の上の断崖で夕日が日本海にキラキラと輝いていた。「きっと母はこの夕日を僕に見せながらあやしていたに違いない」と思って、この場所が原点なんだって実感してさ。ずいぶん後に留萌でライブをした時に分かったんだけど、あの有名な黄金岬で生まれたんだよ、僕。

第2回「小樽入船小 佐藤恵子先生にあこがれ」(2019年7月18日夕刊)

北海道新聞2019年7月18日夕刊 ...3歳から小樽を出るまで習っていたのがバイオリン。父は後から「情操教育ではなく、だらしのないおまえの日常にけじめをつけるためだ」と言っていた。きっと変な子供だったんだろうな。個人教室に週2回ほど行ってたけど、とにかく行くのが嫌だった...

...私立入船少に入学したのは1955年で、担任だったのが佐藤敬子先生。20代前半で凛とした教育熱心な人だった。今も忘れられないのが1年生の給食の時、先生の手をかんでしまったこと...

...2年生の春、夢中になったのがディズニーの実写SF映画「海底二万哩」。朝礼の時、先生が絵や内容が書かれた宣伝用ポスターを持って説明をしてくれた。潜水艦ノーチラス号がビームを光らせて浮上するイラストにドキドキして、父と弟の3人で映画を見に行った...

...佐藤敬子先生もネモ船長も後年、僕の歌の中に登場するようになるなんて、その時にはまったく思いもしなかった。

第3回「"雑誌の編集" 表現の魔力に目覚める」(2019年7月19日夕刊)

北海道新聞2019年7月19日夕刊 ...少年雑誌「冒険王」「少年」の影響で雑誌も作った。級友に「何か書いて」と声をかけたけど集まらず、結局1人で編集したり。少年探偵団と明智小五郎の混ざったような話も書き、第1回は「黒いネオン」というタイトル。中学3年生の時は函館山ロープウェイを取材した小冊子を弟と作った。いろんなものを詰め込んだアルバムを出している原点はこの「雑誌」なのかも。

第4回「函館ラ・サール ディランの歌声に衝撃」(2019年7月23日夕刊)

北海道新聞2019年7月23日夕刊 ...初めての自作曲はその年の冬。学校帰りに神社の裏を歩いていた時、ベートーベンの「田園」の一節が頭の中に流れてきて、そのフレーズにつなげるように詞とメロディがひらめいた。ただ、ギターもないし弾けないから、何度も自分の頭の中でくり返して覚えた。それが自主制作のアルバム「蓄音盤」(70年)に入っている「冬が来る」という曲なんだよ。

第5回「明大夜間部 演劇サークルで表現力磨く」(2019年7月24日夕刊)

北海道新聞2019年7月24日夕刊 ...「さあ音楽活動を始めるぞ」と意気込んだものの、軽音楽部が見つからない。やむを得ず、いくつか別のサークルに入ったんだよ。
 一番力を入れたのが明大OBの唐十郎の流れをくむアングラ系の劇団「現世代」。不条理劇をやっていた。僕もピエロ的な役をやった時はドーランを塗ってブランコに乗って熱演した記憶がある。校舎の屋上で発声練習や柔軟体操をするんだけど、肉体的表現を含め、ここで歌うための下地ができていった...

第6回「売り込み 早川義夫さんに認められ」(2019年7月25日夕刊)

北海道新聞2019年7月25日夕刊 ...後日、原宿の事務所に西村くんたちと行った。ギターケースが無いからトレンチコートでくるんでズボンのベルトで止めて。呼び鈴を押すとURCのディレクターでもあった早川さんが出迎えてくれた。奥では細野さんたちがカレーを食べていた。
 その時はすでに「あがた森魚」と名乗っていた。本名の山縣は響きが堅苦しいし、五十音順だと名前を呼ばれるのが遅い。「あ」なら最初だし、森と魚は北海道出身らしいからね...

第7回「鈴木慶一君 共に音楽活動 自主制作も」(2019年7月26日夕刊)

北海道新聞2019年7月26日夕刊 ...アルバイトの帰りに彼の家によるようになり、その頻度は増えていった。彼を映画やライブに連れまわし、"フォークの神様"岡林信康とバックバンドを務めた「はっぴいえんど」の録音現場を見学したり。彼とはバンドを組んだりしたけど、短期間で曲作りはもちろん、セッションとはどういうことかなど、ミュージシャンとしての基礎を一緒に学んだ気がするね。
 このころ僕は早くレコードを作りたいという思いが強かったけど、早川さんはURCを辞めてしまったから、思い切ってアルバム「蓄音盤」を自主制作することにした。...

第8回「赤色エレジー 漫画の衝撃そのまま歌に」(2019年7月29日夕刊)

北海道新聞2019年7月29日夕刊 ...「第3回全日本フォークジャンボリー」。大小三つのステージなどがあって僕は鈴木慶一君のバンド「はちみつぱい」と小さなサブステージで共演。「はちみつぱい」は僕が名付け親でメンバーの時期もあった。「大きなステージの岡林信康や吉田拓郎に早く追いつきたい」と思っていたけど、間違えず歌うのが精いっぱい。それでも「赤色エレジー」は意外なくらい観客に受けた。その日のうちにコンサートを録音していたキングレコードの人が来て「新たなレーベルを立ち上げるから一緒にやろう」と誘われ、うれしかった...

第9回「デビュー曲 「11PM」出演で人気に火」(2019年7月30日夕刊)

北海道新聞2019年7月30日夕刊 ...番組の「若者のアングラアート事情」という特集で、大道芸人らと出演した僕は長髪にジーパン、Tシャツ。家にあったズック靴はボロボロで「げたなら少し減っていても大丈夫」とあまり考えず履いていった。その格好が妙に歌と時代にマッチしていたのか、歌う前に司会の大橋巨泉さんが面白がって「なんでお前、げた履いてくるの」って。翌日からワイドショーなどにも引っ張りだこ。オリコン順位も上昇し、4月の発売1週目の80位が8月には最高の7位まで上がり、最終的に50万枚のヒット。「どんなに売れても俺は俺だ」と思っていたけどね...

第10回「舞台に立つ 森繁さんが演技ダメ出し」(2019年7月31日夕刊)

北海道新聞2019年7月31日夕刊 ...舞台初日、約1900席は満員になった。僕は緊張感よりも「森繁さんに見下されたくない」という思いが強かった。いよいよその場面。「俺のサーカスに入れ」と森繁さんに言われ、僕が泣きながら煙突を降りるシーンで暗転し、場面が変わった。セット裏の階段を降りたところで森繁さんが「できたじゃないか」と肩を抱き、握手してくれた。あの一言は今でも忘れられない。本当にうれしかった。森繁さんとはそれから付かず離れずの交流が続いた...

第11回「新バンド 作風一変 新たなファンも」(2019年8月2日夕刊)

北海道新聞2019年8月2日夕刊 ...僕がリーダーで、他のメンバー6人全員が年下。宇宙服のような格好で良くも悪くも悪のりしていたね。シングル「ロンリー・ローラー」と「さらば青春のハイウェイ」はテレビドラマの主題歌となり、そこそこヒット。ただ、あまりにも僕の変化が激しくて離れていったファンもいたけど、アニメ「うる星やつら」のエンディング曲に「星空サイクリング」が採用されるなど若いファンも増えたんだ。
 一方で、僕が影響を受けた作家稲垣足穂の独創的な世界をバンドに持ち込もうとして、メンバーに理解してもらえなかった。84年に解散したのも、これまでの「あがた」と違う音楽をやろうとした反動だったかもしれないね。

第12回「タンゴ 本場南米で熱唱 巨匠称賛」(2019年8月5日夕刊)

北海道新聞2019年8月5日夕刊 ...ただ、音楽評論家や日本から来ていた熱狂的なタンゴファンからは「なんで先生の前でこんなやつが歌うんだ」「名曲に変な詞をつけやがって」とすごい不評だった。帰国前の演奏会で、シエテ・デ・オロと巨匠の楽団にゲスト出演することが決まっていたのだけど。見えない力が働いてさ。「あがたは出なくていい」と言われてしまった。
 87年、僕はアルバム「バンドネオンの豹」を出した。国内でのタンゴブーム再来と重なって話題となり、続けて続編も発売。「タンゴ歌手として再スタートしてもいい」。そうとさえ思ったけど、業界は簡単によそ者を受け入れる土壌ではなかった。

第13回「北アフリカへ 1人で大陸横断 自信に」(2019年8月7日夕刊)

北海道新聞2019年8月7日夕刊 ...「ダルブッカ」という太鼓から刻み出されるリズムに、僕の体に電流が走ったんだ。小学校時代の一時期を過ごした青森のあの「ねぶた囃子」と通底するものを感じた。
 オランまで飛行機を使わず、ユーラシア大陸を横断する形で向かうことにしたんだ。決まったルートもなく、何ヶ月かかるか分からない。僕の中にある冒険家活劇的ヒロイズムが目覚めたんだね...

第14回「再びメガホン 函館の映画祭 礎築く」(2019年8月8日夕刊)

北海道新聞2019年8月8日夕刊 ...原作はオートバイに乗る少女の絵日記のような内容なので、そのままでは映画は20分にもならない。山中さんの提案で「少女が生き別れた父親を探しに行く」ストーリーにした。原作の舞台は名古屋近郊だけど、僕は「10代を過ごした函館でぜひ撮りたい」と提案したんだよ...

...監督第3作目は「湊のロキシー」(99年)で、仏の作家ジャン・コクトーの小説「恐るべき子供たち」がモチーフ。僕が東京で開いていた映画のワークショップの実践として、函館で短編をとるはずが、僕の脚本に参加したみんなが意見を出し合ううちに内容が膨らんでいったんだ。僕が出演した映画「失楽園」(97年)が大ヒットし、金一封が出てフィルム代に充てることができたのも大きかった...

第15回「還暦ツアー「もっと歌いたい」が本音」(2019年8月13日夕刊)

北海道新聞2019年8月13日夕刊 ...09年2月、東京・九段会館でツアーの締めくくりとなるコンサート「あがた森魚とZIPANG BOYZ號の一夜」を開いた。鈴木慶一君をはじめとする「はちみつぱい」の面々やアッコ(矢野顕子)さんらデビュー以来の仲間が集まってくれた。僕は3時間ほぼ出ずっぱり。アッコちゃんが「こんなに長いと聴いている人が疲れるでしょ」って言うから「本当はもっと歌いたい」と答えたら、あきれられてさ。忘れられない夜になった。
 ツアーの模様はドキュメンタリー映画「あがた森魚ややデラックス」(09年)として公開された。普通の歌手なら「恥ずかしい」という裏側もさらけだし、「面白い」といってくれる人も少なくなかったんだ...

第16回「小樽で撮影 亡き恩師題材に映画化」(2019年8月14日夕刊)

北海道新聞2019年8月14日夕刊 ...敬子先生は子供の将来や自分の生き方を強く模索し続けた。瀬戸内寂聴さんは敬子先生より少し年上だけど、戦争を挟んだ昭和を一人の女性として真摯に生きる姿が重なるんだよね。僕は瀬戸内さんの「美は乱調にあり」を読んで、平塚雷鳥や伊藤野枝のことを深く知ってデビューアルバム「乙女の儚夢」(1972年)が出来上がったんだ。
 80年代、僕あ雑誌の企画で東海道五十三次を20日間かけて踏破し、京都にある瀬戸内さんの寺院「寂庵」を訪ねたこともあった。瀬戸内さんから「そのエネルギーでもっといい歌を聴かせてね」と励まされ、うれしかった...







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