デイリースポーツ2013年4月2日〜(神戸新聞社)
「ニューミュージックを創った男〜伝説のプロデューサー三浦光紀氏が語る裏話〜」毎週火曜日〜木曜日の週4回を1セットにして三浦光紀さんが関わったミュージシャンを語る企画。
4/2〜5 | プロローグ |
4/9〜12 | フォークの巨匠 小室等編 |
4/16〜19 | フォークの人間国宝 高田渡編 |
4/23〜26 | 番外編 ケビン・コスナー編 |
4/30〜5/7 | (不明) |
5/8〜10,14,15 | 日本ポップス界の巨人 大瀧詠一編 |
5/16,17,21〜24 | 日本音楽界の人間国宝 細野晴臣編 |
5/28〜31 | 日本音楽界の革命 フォーライフ誕生編 |
6/4〜7 | 不世出の異才 あがた森魚編 |
6/11〜14 | 日本音楽界の至宝 矢野顕子編 |
6月4日 第36回 不世出の異才あがた森魚1 71年、中津川「ステージ占拠事件」の中、僕はテープを回し続けた
あがた森魚さんを発掘したのは、1971年8月7日〜9日、岐阜・中津川で行われた第3書い全日本フォークジャンボリーです。当時としては最大規模の観客を動員した野外コンサートで、僕は前年に引き続き、この歴史的イベントを記録に残すため、メーン・ステージとサブ・ステージにスタッフと機材を配置し、レコーディングをしていました。そこで、日本のフォーク&&ロック史で今も語り継がれている「ステージ占拠事件」が起こりました。あがたさんの話に入る前にこの事件のことに触れておきます...
6月5日 第37回 不世出の異才あがた森魚2 「事件」のテープから流れてきた、どこか懐かしく、しかも新しい歌
"歴史的事件"で幕を閉じた、中津川フォークジャンボリーから帰った翌日、1971年8月11日から、僕は早速編集作業に入りました。朝10時頃から深夜まで、膨大な量のテープを連日チェックしてた中、"その歌"は流れてきました。既存の音楽形式を否定するようなボーカル・スタイルで歌われた、どこか懐かしく、しかも新しい"その歌"に心を打たれ、魅了されてしまいました。"歌の主"を探すため、八方手を尽くした結果、それはあがた森魚(本名・山縣森雄)さんの「赤色エレジー」だと判明しました...
6月6日 第38回 不世出の異才あがた森魚3 青春映画の1シーンのような、あがたさんと鈴木慶一さんの出会い
数々の名盤を作り上げたあがた森魚さんと鈴木慶一さんの名コンビですが、その出会いも運命的でした。
これはあがたさんが語ったことですが、あがたさんは蒲田の証券会社でアルバイトしてた時、休み時間になるとよくギターを弾いてたらしいんです。それをパートで働きに来てた鈴木慶一さんのお母さんが見て「家にも朝から晩までギターを弾いてる、引きこもりの高校生がいるから、是非会ってください」と言われたそうです...
6月7日 第39回 不世出の異才あがた森魚4 70年代日本音楽の金字塔とまで評されたアルバム「日本少年」
...アルバム「乙女の儚夢(おとめのろまん)」は日本で最初の"物語性を持ったトータルアルバム"といわれるようになっていきました。そして、あがたさんを語る場合、次に紹介するアルバムを絶対に避けて通ることはできません。
「ぼくのロックは、あがた森魚と細野晴臣に止めを刺す」(「NMM」1975年8月号)。これは僕がリスペクトするイラストレイターで文筆家の矢吹伸彦さんの言葉ですが、75年6月、そのあがたさんがプロデューサーに細野さんを、アルバム「日本少年」の製作に入ります...
6月12日 第41回 日本音楽界の至宝矢野顕子2 アッコちゃんのデビュー条件は「毎日上寿司を取ること」
その後、"ウワサの天才少女"は10代で、異能の音楽家・矢野誠さんと結婚し、矢野顕子となり、業界では"ウワサのアッコちゃん"として話題になっていて、レコード各社が水面下で争奪戦を繰り広げてました。
1975年にあがた森魚さんの「日本少年」のレコーディングにピアノとコーラスで参加したアッコちゃん(以下こう呼びます0のウワサ通りの演奏に驚き、そのころ並行してレコーディングしていた小室等さん(その時はフォーライフ・レコードの社長)のアルバムもサポートしてもらうことにしました...