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花形文化通信1993年4月号〜(繁盛花形本舗 Free Paper)

堀江卓&モリオアガタ「ハンマーキット」
あがた森魚による堀江卓の漫画「ハンマーキット」の再構築。1994年末まで連載した模様。
1993年10月号は掲載ありません。

第1回(1993年4月号)

花形文化通信1993年4月号 僕がどうして空を飛んだり、街を滑って行ったるするようになったか、その理由をまだ君には話していなかったね。そもそもは、あの航空物理学者イヴァン・タルホフスキー博士の「だれだって空を飛べる」を読んだのがきっかけだったのさ。つまり20世紀の初頭にういルバートオービルのライト兄弟によって人類は初めて空を飛んだのだが、博士は理想がヒコーキに勝利したのだと言った。誰もが理想を持てば空を飛ぶんだ、というその言葉が、僕にジェット・ローラー・スケートを履かせたのだ。

第2回(1993年5月号)

花形文化通信1993年5月号 イヴァン・タルホフスキー博士の偉大なところは、航空物理学の発達に多大に貢献したのみならず、なぜ人類が空を飛ぶのかという理想について多くを買っているとこなのだ。
 博士はそのことについて三つ大切なことを言っている。一つは、空を飛ぶことのつかのまであることのせつなさについて。二つ目は、それでも無限の空間に対する永遠の運動を保とうとするヒコーキのニヒリズムについて。三つ目は、それらのはかなくもあやうい情熱を支えてしまう少年的憧憬の重大さについて。
 今日も僕がジェット・ローラー・スケートで街を滑り空を飛んでしまうのはそういうわけであるからなのだ。

第3回(1993年6月号)

花形文化通信1993年6月号 僕が一番つまらない気持ちになるのはロケット・ローラー・スケートを脱ぐ時だ。事件が終わって、あるいは、悪の一味の追跡を終えて、自分の部屋に帰ってきて、ロケット・ローラー・スケートを脱ぐ時のものたりなさ。放課後のクラブ活動を終えてお家に帰る気持ち。遊園地に蛍の光が流れお家に帰る気持ち。
その気持ちを航空物理学者、イヴァン・タルホフスキー博士の「滑空と帰還」に読みとる。滑空は、ここから彼方へのダッシュ的永久運動願望であり、帰還は地上の翼の基地ならぬ墓地へのタッチ的地上地縛願望である。半永久彼方へとダッシュしていくロケット・ローラーのダッシュ感覚こそ僕のもの。

第4回(1993年7月号)

花形文化通信1993年7月号 僕がはじめてロケット・ローラー・スケートをはいて街を走っていった頃。街といい港といいバーバーもハーバーもものめずらしい程にカラフルな光と色に彩られていて、ただそのことだけで、どこまでも夜の街を走りぬけて行きたい気持ちだった。
そんな魅惑的な夜を掠め取る夜の支配者たちと、この僕が遊戯に耽るのは、彼等に敵対心を持っているからではない。美的様式上、僕が彼等と戦わなければならないから対決しているまでで、僕の正義感がそれをさせているわけではない。
漫画映画というカットの中に踊るロケット・ローラーとして夜の影を与えられた街に潜む様式美の美しさをさぐるダンディーでいたいから。

第5回(1993年8月号)

花形文化通信1993年8月号 私はデコ
ハンマーキットの妹です
今回は私のお話 だから、ハンマーキット番外編
私も、お兄さんのおかげで事件に巻き込まれてしまったことが何度かありました
ね、お兄さん、フラフープ・コンクールの時のあの事件のこと覚えてる?
縞のジャンパーの麻薬ギャング団が、フラフープチャンピオンの武芝三八さんを、竹芝さん橋に改造フラフープで締めつけてしずめてしまった事件のことよ
お兄ちゃんは、どんな理由や、どんな楽しみがあって事件にたち向かっているのか私にはさっぱりわからないことだらけだけれど、あの事件の時、私達を助けに来てくれたお兄ちゃんは、本当にかっこよかった
ハンマーキットって本当に、ロケット・ローラースケートが似合うんだなあ〜って、あらためて感心したわ。
お兄ちゃんロケット・ローラー哲学には、地上をペタペタと歩いている私たちにはわからないロマンティシズムがあるのね ああでも、そんなに空に跳び上ることが幸福なのかしら

第6回(1993年9月号)

花形文化通信1993年9月号 夕暮れ雲の街角で
揺れるブランコ公園の
団地の影法師砂場にかかり
ジャングルジムに月待頃
僕の嬉しいお散歩タイム
街の灯りのポツポツぽっつり独り言
数えて歩くは黄昏魔術師
僕らの住んでる薄い街。
たった今この場所、この時間は、まるで薄いヴァイオレットのオウガンジィで幾重にもくるまれた3Dの薄板界の街だ。
やがて夜が来て、漆黒のビロオドの幕が降り、誰もが眠りにつく頃、どこか知らぬ別の場所にある、これとまったく同じ街の消息に嗅覚を働かせ、不思議な懐かしさを覚えつつ、ロケットローラーで走りぬけていくことにしよう。

第7回(1993年11月号)

花形文化通信1993年11月号 どうも僕には、ニヒルになりががる悪いくせがあってね。ついつい、ニヒルな二枚目を気取ってしまったりもするんだけれど、ま、本当はあんまりそんなポーズって、僕には似合っていないんだ。ほら、だって僕はさ、こんなに笑顔が似合ってしまうんだからね。ハッハッハッハッ。
なのにさあ...この根の生まじめさ、という性分。ソンだねぇ、ソンしてるねぇ。今頃、僕なんかさぁ、ローラースケートの腕(いや足?)磨いてさ、ローラーゲームの東京ボンバーズなんかに入ってりゃ、ちょっとしたスーパースターさ。ハッハッハッハッ。
うむ。何また事件。じゃまた飛んで行かなけりゃ。え、ハンマーキットの路上パフォーマンスの方がずっと派手だって?!そうかなあ〜。ハッハッハッハッ。

第8回(1993年12月号)

花形文化通信1993年12月号  僕の出会った事件の中でも特に謎めいた事件は「月夜の鳥人の巻」だった。その月夜の鳥人の正体は、実はハンマーキットである僕自身だったのではないかという説がある。

 その真相は読者諸君の想像力に譲るとして、僕がそう疑われてもしょうがない理由はいくつかある まず僕の行動がいつも満月ないし満月に近い夜に集中しているということだ。おのずと月夜の鳥人を追跡しているふりをして月夜の鳥人になって犯行を繰り返しているという説 これはまるで二十面相と明智君との関係ではないか ワッハッハ!!

 次に、月夜の鳥人は「善人は三ヵ月を愛す、真実を愛す正義の、人は月光に乗る、美学を体得する人は月の裏に住む」という犯罪美学を持っていて、ハッハッハこれじゃ月光仮面か?!しかし、それは私の月光美学をそのまま登用したとんでもない犯罪美学だ 正直いって、そこがちょっと気に入らない

(P.S)正直に言おう。僕、ハンマーキットと、月夜の鳥人とが別人かであるかの区別は、僕自身にもつかないのである。ではまた次号で。


注:明らかに誤植と思われるところ(三カ月→三日月)や意味の通らない文章がありますが、そのまま載せました。

第9回(1994年1月号)

花形文化通信1994年1月号 まあいい。この僕が月の裏側の月光密輸団をあばけばいいいって寸法さ。はっはっはっ。私が瞑想すればいい。私が理力を発揮すればいい。その時僕はAからA'へとダッシュする。地上より月への跳躍。

そうなのだ。私がハンマーだ。私が車輪でホイールするロケットローラーなのだ。私がハンマーだ。私が謹賀新年のハンマーキットなのだ〜!!(すまん、ちょっと正月の屠蘇を飲みすぎた)

いやー、それにしても、なんで僕は正義のヒーローなんだろう。ひょっとすると僕は月夜の鳥人かもしれないってのにさ。

でもさ、僕が正義のヒーローなのは、僕が月夜にお月さんと真剣勝負してるからさ、それも毎晩毎晩ローラースケートを飛ばしてだぜ。いったい誰が月光の犯罪美学に睨みを聞かせてるってんだい。

番外編 映画「オートバイ少女」(1994年2月号)

花形文化通信1994年2月号 今回は、ハンマーキットをちょいとお休み頂いて、この春に公開予定の映画「オートバイ少女」の話でもしようじゃないか。えっ、知らないって?
あがた森魚氏監督による映画のことだよ。

鈴木翁二の同名映画を原作に、函館ロケを企てていた話題の映画だぜ。主役のみのる役には一般公募で選ばれた石堂夏央。鈴木慶一や永瀬正敏達の友情出演もさることながら、鈴木翁二がナレーターとして、そして監督自身が少女の父親役としてキャスティングされてるってことも重要なポイントさ。

監督自身が思春期を過ごした街で、淡い少年の時間がフィルムに焼き付けられてゆく。監督はもっか、最後の編集作業で極限状態におられるらしいが、我々が銀幕のあがたワールドを体験できる日も近いというわけだ。

初のおひろめは、2月の夕張ファンタスティック映画祭にて。我等が許にオートバイ少女がやってくる日は何時。

首を長くして待つとしようか、諸君。

注:この回はあがた森魚の名前がクレジットされておらず、編集部側で作成した文章の可能性が高いと考えています。

第10回(1994年3月号)

花形文化通信1994年3月号 今夜も街々はPicaroom under the Fullmoonだ。

航空家という航空家である彼等が天空を翔ける 未知空間探検家であるとしたら、僕は路上という路上を駆ける未知空間探検家なのだ。

非現実的な幻を見る人とは、僕ハンマーキットなのか、それとも僕と対決するPicaroomのことなのか。

路上という路上にはVIsionがある。走りぬけた街という街にはIllusionがある。街角という街角の犯罪もPicaroomも、僕というVision(想像力)が生んだ幻想だ。僕の戦いは幻想との格闘だ。

第11回(1994年4月号)

花形文化通信1994年4月号 僕の記憶は全て幻影フィルムの記憶だ。
一枚一枚の絵となって僕の頭脳の中でくるりくるりとめくられていく。
僕は走る。幻影フィルムは巡る。
夜を走る。幻影フィルムは映す。
くるりくるりと記憶の中にまきとられていく。
僕の瞳は組み立てられた瞳だ。
僕の瞳はレンズになって出来事を映しているだけだ。
けれども僕はなぜか様々な不思議な出来事を見て走り出す。

夜の街角は僕の映画撮影所だ。
僕の出くわしている事件は全て撮影所の中で撮影されている物語りだ。
全てのステージセットは堀江卓美術監督が、書き上げてくれた本物そっくりのニセの街角だ。

第12回(1994年5月号)

花形文化通信1994年5月号 雄鶏映画劇場殺人事件の巻
まったくもって次から次へと奇怪な事件が起こるものだ。もっとも、僕ハンマーキットがいるから事件が起こるのか、事件が起こるから僕はハンマーキットでいられるのか、まずもってそのことが第一番の謎に違いないだろうが。

S区T鉄道ガード脇にあった雄鶏映画劇場支配人殺人事件もまた不思議な案件だった。例の昨今流行のオシャレなバラバラ殺人事件。それは最初、支配人の雄鶏氏の失踪から始まった。次に、雄鶏氏を誘拐したという脅迫状。そして雄鶏氏のバラバラ死体。

ところが、その死体は雄鶏氏のものではなく映写技師のものだった。いやそこが、ややこしい。両手両足は技師の義肢。首から上は支配人のもの。左目だけは技師のもの。自殺か他殺か心中か。愛憎のもつれか表現上の行き違いか。謎は深まるかに見えた。しかしルイ・デリックは言った。「映画は幻覚であって真実ではない」と。(次號に続く)

第13回(1994年6月号)

花形文化通信1994年6月号 雄鶏映画劇場殺人事件<完結篇>
事件の結末を言おう。
いつものように、
事件があるから
僕がいるのか。
僕がいるから
事件は幻想されるのか。

映画の殺人事件がまるで哲学的なのは、造園師が庭を造形するように、それはあくまでも模型的だからだ。そのことによって、殺人なんてものは何も起こっていないのに現実の殺人事件以上に存在的でエロス的であるということ

殺人事件が、精神の堕落としたいの誇り高さとの対決そのものであるとすれば、それはジオラマめく映画スタジオの中でこそ輝きを得る。結局僕は雄鶏映画劇場の中でこそ、その幻を観つめていたのだ

第14回(1994年7月号)

花形文化通信1994年7月号 「人造人間ハンマーキット?!」の巻
人造人間ハンマーキット危うし!!
テアトル・ブレリオのスクリーンが破れ、
扉が破れ、ウインドウが割れ、
ハンマーキットがムービィ街の
七色ネオンに飛び散った。
あっ!ハンマーキットは人間人形だった。

「トリックとも現実ともつかぬ。高いところへ、ゼンマイ仕掛けのようにのぼって行って、超時空的にひゅ〜うとジャズバンドの笛のうなりと一緒に舞い落ちるとき、僕の嬉しさは悲しみにさえ近い」(イヴァン・タルホスキー)

スカーレットのマフラーにちばしり鳥のおすまし滑走。たしかにゼンマイ仕掛けめくけど、彼がハンマーキットである理由は、潜水艦の操舵室や地下水道のトンネルの扉の彼方にこそ彼の実世界がひそんでいるからだ。そう、今夜ステージセットの燈が消えるのは午前25時近くになりそうだ。
映画の殺人事件がまるで哲学的なのは、造園師が庭を造形するように、それはあくまでも模型的だからだ。そのことによって、殺人なんてものは何も起こっていないのに現実の殺人事件以上に存在的でエロス的であるということ

殺人事件が、精神の堕落としたいの誇り高さとの対決そのものであるとすれば、それはジオラマめく映画スタジオの中でこそ輝きを得る。結局僕は雄鶏映画劇場の中でこそ、その幻を観つめていたのだ

第15回(1994年8月号)

花形文化通信1994年8月号 残暑お見舞い申し上げます
私はオートバイ少女。
あがた監督が私を撮った映画がもうすぐ公開される。
まだみぬ父親に会いに函館に向かう。

僕はハンマーキット。
あがた監督の次回構想は僕の映画をつくること。
少年的ストイシズムのきらめくアクションムービーさ。

「ハンマーキットの主役には、石堂夏生がいいんだって」
「だって彼女は女の子だぜ」
「少年の面影に限りなく近づいた少女。それがオートバイ少女」
「サディズムと対峙する少年的ロマンティズムとマゾヒズム。それがハンマーキット」

「みなければ、ハンマーキットは語れないわ」
「ちぇっ、宣伝か」
「観にきてね」
「観にいくよ」


第16回(1994年9月号)

花形文化通信1994年9月号 a.プラタナスの梢はいつ黄色くなるのか?
樫の木の葉もいつ琥珀の褥を敷き詰めるの?
もうそろそろとはいえども白き雲高き夏の白昼
あらあらまだまだ残暑おん見舞ひ

b.衰弱や倦怠をすら爆破する赤き沸沸の夏
そこにて一瞬の閃光白昼を裂け
それは夏を破る雷鳴 地を乱打の雨音たちの
イヴニング・ニュース
ハンマー・キットのお目覚め時

c.早く夕暮れ 飛白(かすり)の模様に箒の掃いた
青白ざめた夏の宵の満月よ
深まりし夜に 電光の街と対比されたし
彼方の むなしき虚無しき虚空よ
ここに電光石火の百花繚乱の
知星の郷愁がまたたいてあることを
看てとられし

第17回(1994年10月号)

花形文化通信1994年10月号 a.口ひげの下の葉が暗号の解読を終えるころ
船着場のらせん階段つむじけちらし
フェリーで高飛びしたあと

b.秋風の光
かえでや檬の葉裏を照らしだす頃
止まることを
知らない車輪の
乱暴の友ハンマーキットは、
礼儀正しい踊り子を
由緒正しく秋空にあそばせる。

c.「この星では地球はなんと呼ばれているのか判らないが...」
ハンマーキットの打電がとどく。
暗いらせん階段を
恋人に向かってのぼってゆくことを
映画化すると回転木馬を
ローラースケートで巡る
ハンマーキットになる。

第18回(1994年11月号)

花形文化通信1994年11月号 a.ボクの喜劇は、僕の姿が漫画「ハンマーキット」の中にインサートされていることだ。例えばそこで僕は「ハハハ今日はみんな磁石靴をはいていましてね。それっそ〜れ」と得意になるのだ。

b.僕の悲劇は、僕の姿が漫画「ハンマーキット」の中にインサートされていることでもある。例えば僕は「あんがいあっけなかったね紅あざみくん」と漫画のラストシーンのセリフを喋らねばならないことだ。

c.僕の退屈は、漫画「ハンマーキット」の中に存在していない時だ。昼下がりのカフェで茶をのむ。イナビカリの棘すらも感知しない閑雅な僕を、誰が許容するというのだ。ハンマーキットのヒロイズムはティーカップの上では寛がない。












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